14:46黙祷。
あれから5年の月日が、経ちました。忘れてはいけない東日本大震災。

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あの日、茨城県に住んでいた私たち家族。

次男は高校入学手続きのため、埼玉県の与野駅で地震に遭いました。

当時ゴルフ場でキャディーの仕事をしていた私。6番ホールで1回目の地震。今まで聞いた事のない地鳴りの後に大きな揺れを感じました。揺れがおさまり、またプレー再開。次のホールのティグランドで、2回目3回目と立て続けに来た大きな地震がきました。

地鳴りもひどく立っていられず、お客様と地べたに寝転び、いったい何が起きてるのかわからず、ただただお客様と手をとりあっていたことは今でもはっきり覚えてます。

となりのホールをみると、地割れでガタガタになってしまってるコース。カート道路もぐしゃぐしゃ!

あわててスタート室前にもどり、お客様のゴルフバックをおろしながら入ってきた情報はお台場の火災。

そして、東北沿岸部の津波。この辺りの情報は全く入らずでした。

お客様を送り、いざ自分の携帯を持つと九州にいる知人からの電話。『大丈夫?』と聞く知人にこのあたりの事が全くわからない!というと、向こうで流れた地震速報の事を教えてくれました。

とりあえず着替えて帰宅。ゴルフ場をでると、通勤で通ってる道は、ブロック塀が倒れ、屋根は落ちて、信号機は折れてる状態に目を疑いました。

子供達は?無事?

小学校6年生の娘、保育園年中さんの娘、どうだったんだろうか?と思っても電話はつながらず・・

30分で着く自宅まで、2時間かかりながらの帰宅。保育園に到着すると電気の点かないホールでみんなで毛布をかぶり、円になって先生達に見守られてました。

小学生の娘は、近所の方のお家に避難させていただいており、そのお宅のお子様をとなりの市まで迎えに行くのを

娘さんを一人にはできないので一緒に連れて行きます。必ず連れて戻ってきます。とメールが届きました。

娘に会えたのは、地震発生から5時間後。ガタガタ震える次女を抱き、娘を迎えると

『死ぬかと思った』と涙ポロポロ。

余震が続く中、近所のお宅に避難させてもらい、毛布にくるまって過ごした一夜。余震の怖さから子供達は吐き気をもよおしてました。

埼玉にいた次男は、知人の方との連絡で無事を確認。その後その方のところでお世話になりました。

翌朝自宅に戻ると、幸いなことに大きな被害はなかったものの、水道、電気、ガスというライフラインは遮断されてました。

卒業式まであと1週間という時期だったのですが、校内に入ることはできず、休校。

埼玉に住む父からの電話。『ようやくつながった!無事だったか?』『いますぐ、そっちをでてこっちに来い』という父の言葉は一刻も早くと言わんばかりの声でした。

とりあえず必要なものと、犬、猫を車に乗せて埼玉へ向かいました。

帰宅困難者・・

国道を走る中、私の目に入ってきたのは、帰宅困難になった人たち。ずっと歩き続け帰ってきてる人たちの姿でした。

いつもは1時間半でつく実家にたどり付いたのは、8時間後。

娘2人、途中で迎えに寄った次男を連れ実家で食べたご飯とお味噌汁を口にした時に、ようやくほっとしたのか涙が出てきました。

テレビに映し出される東北の光景を見た時に、初めてこんなことが起こっていたなんて!と、ただただ呆然と見ることしかできなかったのは、いうまでもありません。

涙の卒業式

いったい、茨城で卒業式はできるのだろうか?と不安に思う矢先、学校からの連絡。

卒業式を予定通り行います。ただ、いつまた地震が来るかわからない中での卒業式になります。いざという時は卒業式を中断せざるおえないことになりますが、当日、皆さんをお待ちしてます。との連絡でした。

もう、涙涙の卒業式。エリアメールがなると、子供達も私たち保護者も身震いは止まらずでした。

そんな中でも無事卒業式を終えたことは、先生達のおかげだと思います。

あれから5年・・

あの震災を経験してから、私が日頃気に掛けてることは、飲料水と非常食はもちろんですが、それより車のガソリン

半分は必ず入れておく!ということだけは欠かしていません。

地震に限らず、停電になればスタンドは閉まってしまいます。いざという時に車は使うことが多いので。

最後になりますが、まだまだ復興とまでいかない東北の方達。1日も早く安堵ある生活になれるよう願います。

犠牲になった方々の、ご冥福をこころよりお祈り申し上げます。